- ハワイの王朝史 -

カメハメハ大王以来の数奇なハワイ王朝史


ハワイ諸島はほぼ北緯23.5度の北回帰線に沿って分布しており、東から西へ順にハワイ島、マウイ島、カホーラウェ島、ラナイ島、モロカイ島、オアフ島、カウアイ島、ニーハウ島の8つの大きな島と小さな124の無人島から構成され、別名を「サンドイッチ諸島」とも言います。

 

ハワイを統一したカメハメハ大王
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ホノルルのカメハメハ大王像 ハワイにカメハメハ王朝を築いたカメハメハ1世(1736or1758?〜1819)はハワイ諸島の一番東のハワイ島で生まれました。カメハメハが生まれた頃のハワイ諸島は何人かの首長により分割支配されており、統一的な王はいませんでした。

 カメハメハとは「さびしい人」を意味します。彼が生まれる前に「この子はハワイ全土の支配者になる」という予言があり、首長たちは彼の生後すぐに殺すように母親に要求していました。母親は密林に逃げ込んで無事に彼を生み、この出来事を記念して名前をつけたのです。

 当時、ハワイ島全体とマウイ島の東部地区はカラニオプウ王によって支配されていました。カラニオプウ王の王位継承者はその長男のキワラオでしたが、王の甥にあたるカメハメハのほうが優秀だったので、1782年に王が死ぬと、キワラオ一族はカメハメハ一派に戦いを挑み、「モクオハイの戦い」でキワラオは戦死、カメハメハはハワイ島の王になりました。

 1779年にはイギリスの大航海者ジェームズ・クックがハワイ島を訪れ、カメハメハはクックに対面しています。カメハメハはこのとき、西洋の武器の優秀さと、貿易について学ぶところがあったようです。クックはその後、ハワイ島民との争いで島民に殺されてしまいます。

 1790年にはマウイ島、モロカイ島、ラナイ島の支配者と戦って破り、カメハメハはこれらの島を支配下に置きました。

 オアフ島へは1795年に上陸し、ヌアヌの谷で決戦し勝利します。このとき相手側の兵士は絶望して約300mの断崖から身を投げて死んだと伝えられています。

 残る2つの島、カウアイ島とニーハウ島の支配者は、1810年、戦うことなく平和のうちにカメハメハに支配権を引き渡し、この年にカメハメハはハワイ全島の王になったのです。

 カメハメハは戦いだけではなく行政や貿易にも優れ、マウイ島のラハイナとオアフ島のホノルル港とを、アメリカとアジアを結ぶ航路の中継点に育てました。

 1810年頃からハワイ産のビャクダンが中国で珍重されるようになり、カメハメハはイギリスと結びビャクダン貿易を独占。これ以降、ハワイは急ピッチで太平洋における商業の中心地となります。

 1819年にカメハメハはハワイ島で亡くなり、ごく近親の人たちにより、遺体は秘密の場所に葬られたので、彼の墓がどこにあるのか今では誰にもわかりません。

 

カメハメハ2世はタブーを廃止した
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 カメハメハ1世には5人の妃と13人の子供がいました。彼は生前、後継者に息子のリホリホ(カメハメハ2世)を、副王に妃のひとりカーフマヌを選んでいました。

 2世は酒好きで放蕩者の悪い王でしたが、ハワイに長い間伝わってきた根拠のないタブーを撤廃すると同時に古い法律や宗教も撤廃しました。

 宗教的に真空地帯となったハワイにはアメリカからプロテスタントの宣教師たちが入ってきます。

 1819年の秋にアメリカ船がハワイの海岸で鯨を捕らえたのがきっかけで、その後の約50年間は北太平洋で捕鯨が盛んになりました。ホノルルやラハイナは捕鯨船の補給基地として栄えます。

 2世は、1823年にイギリスへ船出したとき、西洋の病気に対して免疫がなかったため、妃のカマルルともどもイギリスであっけなく死んでしまいます。

 

カメハメハ3世は10歳で即位した
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 カメハメハ3世は、2世の弟でカメハメハ大王の末っ子にあたります。1825年に即位しましたが、まだ10歳の子供でした。副王はカーフマヌが歴任し、幼い王の代行を果たしました。

 1832年にカーフマヌが亡くなり、キナウが副王となりました。これらの副王はプロテスタント的だったので、宣教師の指導のもとでハワイは民主化が進みます。

 1840年代にはハワイで最初の憲法が発布され、ハワイ王国は王のもとで内閣、議会、最高裁判所を持つにいたります。

 

カメハメハ4世時代のハワイ
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 カメハメハ3世は、1854年に亡くなり、後を継いだのは3世の甥のカメハメハ4世(1834〜1863)です。4世はアメリカを好まず親英的で、ビクトリア女王治下のイギリスをハワイ王国の模範と考えました。

 カメハメハ4世と妃のエマ・ヤングはミュージカルとオペラに熱中し、それらを演出したり彼ら自身も舞台に出ました。

 このころハワイに侵入したコレラ、性病、天然痘、ハンセン病(ライ病)などで、ハワイの人口が急減してしまいます。

 1861年にアメリカでおきた南北戦争によりアメリカの捕鯨業が衰えたこともハワイの経済に深刻な影響を与えました。南北戦争はまた、アメリカでの砂糖の生産を急減させたため、不足分がハワイに求められ、サトウキビ栽培がハワイの主な産業になりました。このサトウキビ栽培の労働者として、中国や日本から多数の移民がハワイに渡っていったのです。

 

カメハメハ5世は一生独身だった
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 カメハメハ5世は1863年に王位を継ぎます。5世は、4世の兄にあたりますが、エネルギッシュで公正な王であり、祖父のカメハメハ大王の血を最も色濃く受けていたといわれます。

 カメハメハ5世は一生独身で子供がなかったので、1872年に亡くなったとき、王位継承者の選出で問題が起きました。

 まず、カメハメハ大王の孫娘バーニア・パウアヒに王位継承が要請されますが、彼女は銀行家のチャールズ・リード・ビショップと結婚していたので、それを断りました。バーニアは、しかし、夫のビショップとともに、ホノルルのクイーンズ・ホスピタルの建設に協力したり、ホノルルのビショップ博物館をハワイ王国に寄付したりして貢献しました。

 

カメハメハ王朝の終焉
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 やむを得ずハワイ議会は選挙によって王を選ぶことにし、有力な首長のひとりであったルナリロ(1835〜1874)が選ばれ、1873年に即位しました。これでカメハメハ王朝にはピリオドが打たれたわけです。しかし彼は、即位の翌年、1874年に在位2年目にして亡くなってしまいました。

 

日本にも来たカラカウア王
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 次に王位を継いだのは、前回の選挙でルナリロとその座を争った、カラカウア(1836〜1891)です。彼は「陽気な王」と呼ばれました。

 カラカウア王はハワイの古い歌を英語に翻訳したり、作詞や作曲もするなど、妹のリリウオカラニと並んで、ハワイの歴史に残る偉大な音楽家でもありました。

 1881年から世界一周した彼は、日本では皇族のひとりをカイウラニ王女の夫としてむかえる運動をしましたが成功しませんでした。歴史に「もし」は禁物ですが、もしこれが成功していればハワイは日本の属国になっていたかもしれません。

 1875年にカラカウア王は、アメリカとの間に貿易に関する相互条約を締結します。ハワイの島々とアメリカ本土をつなぐ蒸気船が運航されるようになっており、有名な冒険作家マーク・トウェインもこれに乗ってハワイを訪れています。

 この条約はハワイに多くの利益をもたらしますが、アメリカ本土の商人との結びつきが強まったため、ハワイにいるアメリカ人たちには不利益となり、彼らはひそかに結託して「ハワイ連盟」という結社をつくりました。

 1887年には「ハワイ連盟」による無血革命が成功し、「ベイオネット憲法」と呼ばれる、より自由主義的な憲法がつくられました。この年にアメリカは、パールハーバーの専有使用権を獲得し、ハワイ王国への支配力を強化していきます。

 

最後の女王リリウオカラニ
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 カラカウア王は、1891年、サンフランシスコで亡くなりました。この年、王位を継いだのはカラカウアの妹リリウオカラニ(1838〜1917)です。

 リリウオカラニはアメリカの支配が強まってきたことに反対し、王の権利を取り戻すとともにハワイ人のためのハワイをつくる運動を起こしました。これに対し、ハワイ在住のアメリカ人が組織した「ハワイ連盟」の延長にある「合併連盟」が秘密のうちに結成され、対抗します。

 女王リリウオカラニと合併連盟の決戦は1893年、武装した合併連盟がホノルルの町を制圧し、政府の主な建物を占領して決着がつきました。

 女王は退位を表明し、ハワイ王国にピリオドが打たれました。翌1894年にはハワイは共和制をとり、1900年にはアメリカ領となり、1959年には50番目で最新のアメリカの州となりました。

 ハワイ王朝の最後を飾った国王カラカウアや女王リリウオカラニが生活したホノルルのイオラニ宮殿は、1892年に建てられ現在に残りますが、その歴史に王制を持たなかったアメリカ合衆国にとっては唯一の宮殿となっています。

 


この文章は、科学雑誌『Newton』1994年9月号「カメハメハ大王 ハワイ諸島を統一した大王」(竹内 均)から再構成しました。

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